李登輝氏にノーベル平和賞を

台湾の民主化、本土化を促進し、総統退任後も台湾共和国建国のために精力的に活動している李登輝氏の功績は間違いなくノーベル平和賞に匹敵すると私は考えている。これについて話す前に、まずはノーベル賞とはどんな賞なのかについて説明したい。なるべく簡潔にまとめたいのだが、説明すべきことが多く、一つ一つのことを簡潔にまとめても、結局長文となってしまった。

ノーベルという人物について
アルフレッドノーベルは1833年生まれのスウェーデン人。ニトログリセリンという非常に爆発しやすい物質をケイソウ土に染みこませることで、持ち運び可能にすることに成功。これをダイナマイトと名づけた。これによりトンネル工事をすばやく、安全にできるようになり、社会の発展に大いに役立つこととなった。この発明により、ノーベルは莫大な財産を築いた。しかしその後、ダイナマイトは発明者の意に反して戦争で使われるようになる。ノーベルは1896年に没する時、自分の財産を用いて基金を設立し、その利子を毎年物理、化学、医学・生理学、文学、平和の各分野で人類のためにもっとも貢献した人に賞として与えてほしい、という旨の遺言を残した。

ノーベル賞について
ノーベルの遺言をもとに、1901年から始まった世界的な権威を持つ賞。当初は「物理学」、「化学」、「生理・医学」、「文学」、「平和」、の五分野であったが、1969年に「経済学賞」が新設されて六分野となった。選考は物理学賞、化学賞、経済学賞の三部門についてはスウェーデン科学アカデミーが、生理学・医学賞はカロリンスカ研究所が、平和賞はノルウェー国会が、文学賞はスウェーデン・アカデミーが行う。受賞者へはメダルと賞金が与えられる。授賞式はノーベルの命日である12月10日に、平和賞を除く5部門はスウェーデンの首都ストックホルムで、平和賞はノルウェーの首都オスロで行われる。
日本人のノーベル賞受賞者一覧
湯川秀樹 (物理学賞、1949年)
朝永振一郎 (物理学賞、1965年)
川端康成 (文学賞、1968年)
江崎玲於奈 (物理学賞、1973年)
佐藤栄作 (平和賞、1974年)
福井謙一 (化学賞、1981年)
利根川進 (生理学・医学賞、1987年)
大江健三郎 (文学賞、1994年)
白川英樹 (化学賞、2000年)
野依良治 (化学賞、2001年)
小柴昌俊 (物理学賞、2002年)
上記の方々について詳しいことは一切省かせていただく。


それではノーベル平和賞受賞者にはどんな人がいるのだろうか。ここではアジア人に限定させていただく。読むのが面倒な方は飛ばしていただいて構わない。
アジアのノーベル賞受賞者とその功績
レ・ドク・ト(ベトナム)1973年(ただし受賞を辞退した)
佐藤栄作(日本)1974年
1964年11月から1972年7月まで日本近代史上最長の7年8ヶ月にわたって首相を務める。在任中は日韓基本条約締結、沖縄返還などを実現。74年、首相在任中に非核三原則を提唱するなど太平洋地域の平和に貢献したとして、アジア初のノーベル平和賞を受賞。国内には疑問の声も上がった。翌年74歳で死去。
マザー・テレサ(インド)1979年
1910年マケドニア生まれのアルバニア人。1928年にインドの修道女としてインドに移住。第二次世界大戦後にはインドの貧困救済のために精力的に活動するようになる。1950年にインドに帰化。1979年にノーベル平和賞を受賞。1997年に死去、インド政府によって国葬となった。
ダライ・ラマ14世(チベット)1989年
チベットの国家元首、チベット仏教の最高指導者。1959年にインドに亡命し、ダラムサラに亡命政府を築く。以後40年以上にわたり、平和的な方法でチベットを世界にアピールし、チベット文化を守り続けてきた。他の民主活動家と違うのは、チベットが現在中国に占領され、激しい弾圧と破壊に見舞われている中で、チベット文化を守り続け、チベットの知名度を国際的なものにしたことである(日本ではチベットの政治問題はテレビで全くといっていいほど取り上げられないが、欧米では頻繁に取り上げられている)。彼の努力がなければ、今頃チベットは世界中から忘れ去られていただろう。
アウンサン・スーチー(ミャンマー)1991年
ミャンマー(ビルマ)独立の父アウンサンの娘。しかし彼女が2歳のときに父のアウンサンは暗殺される。イギリスに留学してイギリス人と結婚。その後、父のことを知りたくて、日本語の資料を研究するために(アウンサンは戦前の日本と非常に深い関係にあった)日本語を勉強。80年代に京都大学東南アジアセンターの客員研究員を2年間務める。88年に帰国時にちょうどミャンマーで民主化運動が勃発し、たちまち彼女は民主化運動のリーダーに。しかしその後自宅軟禁を喰らい、軟禁されているさなかでノーベル平和賞を受賞。授賞式にはイギリスにいる夫が参加した。95年にいったん軟禁を解除されたが、その後もたびたび軟禁と解除を繰り返す。ミャンマー国民と欧米諸国からは高い支持を得ているが、今のところ成果らしい成果はなし。しかしアラファトやラビンのように命を落としたわけではなく、金大中のように政治生命を失ったわけでもないので、今後ともまだ可能性がある。
ヤセル・アラファト(パレスチナ)1993年
もともとこの人はテロリストのリーダー。その後武装闘争はやめ、パレスチナ国家樹立のために努力したが、なんの進展もないまま2004年に死亡。多くのパレスチナ人に希望を与えたかもしれないし、知名度とカリスマ性は抜群かもしれないが、それほど優秀な人物とも思えない。
イツハク・ラビンとシモン・ペレス(イスラエル)1993年
93年当時、イスラエルの首相と副首相。パレスチナとの和平に努力し、93年にはクリントン大統領の仲介でアラファト議長と握手をするまでに至ったが、95年にラビン首相が暗殺され、和平プロセスは頓挫する。後任にはペレス副首相が昇格したが、その後のイスラエルは右派と左派の首相が交互に入れ替わる状態に。彼らの努力は結局何の成果ももたらさず、無駄であった。
C.ベロとJ.Rホルタ(東ティモール)1996年
東ティモールの独立運動家。当時、まだインドネシアの支配下におかれている中で、東ティモールの人々に勇気と希望を与えたということが受賞理由。その後、国際社会からインドネシア政府への圧力が高まり、さらにスハルト退陣後の極端な社会・政情不安の中で、ハビビ政権が東ティモールでの住民投票を認めざるを得ない状況に追い込まれ、ノーベル賞受賞からわずか3年後の99年に住民投票が行われ、02年に21世紀最初の独立国家となった。そう考えると、二人の功績はそれなりにあると言えるかもしれない。
金大中(韓国)2000年
1998年に韓国大統領に就任すると、「太陽政策」を掲げ、北朝鮮との融和のために努力し、南北首脳会談も実現させた。しかしそれ以外には南北の緊張緩和に何の役にもたっていない。しかも暴虐な独裁政権との宥和政策など、不正義であり、反平和的行為である。
シリン・エバティ(イラン)2004年
女性弁護士。イスラムの戒律が厳しいイランにおいて、女性の権利向上や人権擁護、民主化などの運動に取り組む姿勢が評価された。しかし一弁護士がどこまでイランの体制を変革できるかは疑わしい。エバディさんの受賞はイラン政府に対する政治的抗議の意味合いが強いと思える。

李登輝氏の功績

では台湾の前総統、李登輝氏の功績を見てみよう。
李登輝は1988年に台湾出身者で初めて台湾の総統に就任した。すでに蒋経国政権末期に民主化の萌芽は見られたが、ただ「蒋家の者が後を継ぐことはない」のと戒厳令を解除したことと、新聞の発行を自由化した(言論が自由になったわけではない)だけであった。李登輝は本格的に台湾の民主化にとりくむようになる。

総統就任後の1988年4月には政治犯を減刑して釈放した。
1990年3月、台湾の学生たちが民主化を求めて中正祈念堂で座り込みの抗議を行った。中国で天安門事件が起こった9ヵ月後である。これに対し李登輝氏は学生運動のリーダーと会談し、@国民大会の解散、A超党派の「国是会議」の開催、B動員戡乱時期の停止と臨時条款の廃止、C総統の直接選挙の実施、D政治改革の日程表の提出、を約束した。中国で学生たちが天安門に集って民主化を要求したときには、人民解放軍が出動して2000人の学生たちを虐殺したのとは大違いである。
1990年5月に第八期総統に再任されるとただちに政治犯に対する大規模な特赦を行っている。
1991年5月 「動員勘乱時期臨時約款」を廃止し、中国との戦争状態終結を宣言した。「動員戡乱時期」とは、「反乱団体」である中国共産党政権を「戡乱」(平定)するまでの、国家総動員の時期をいう。台湾を「非常事態」下におき、憲法よりも上位に来る「臨時約款」を制定することによって、中国国民党一党独裁を無理やり正当化してきた。
1991年の12月に40年以上も改選されていなかった国民代表大会の「万年議員」約600人が一斉退職した。李登輝総統は万年議員一人一人を訪れて説得したのだという。気の遠くなるような作業であっただろう。
1992年5月には刑法100条を改正し、これにより言論の自由を確保し、ブラックリストも有名無実となり、政治犯も存在しなくなった。
同年年12月には初めて完全に民主的な立法議会選挙が行われ、民進党が161議席中51議席を獲得する大躍進を遂げた。
1993年には県市長選挙、1994年には台北・高雄市長選挙、台北・高雄市議会選挙が行われ、民主化は地方政治にも広がった。
1995年には、48年前に国民党が台湾の民衆を虐殺した228事件に関し、李登輝総統は本来なら被害者の立場でありながら、国民党主席の立場で台湾国民に謝罪した。すでにその3年前には被害者に対する保証金の給付を始めている。
1996年には総統選挙を実施し、過半数の得票率を得て当選した。ここに、台湾の民主主義は極めて成熟した段階に達したことになる。
この年、モンゴルを国家として承認している。まるで笑い話のようであるが、1921年に独立したモンゴルを、中華民国政府は台湾移転後も国家として認めてこなかったのだ。
1998年には台湾省議会が廃止された。台湾省は中国のひとつの省、つまり地方政府という建前だが、実際には台湾の大部分の面積を占めるもので、大変な効率の悪さをもたらしていた。
1999年の台湾大地震の際には的確ですばやい指導力を発揮した。
2000年の総統選挙では民進党の陳水扁氏が当選し、台湾史上初めての政権交代が実現した。この時、李登輝総統は表面的には副総統の連戦を応援していたが、影では陳水扁を応援していたと推測されている。この推測はおそらく間違いではないだろう。

 

以上が総統就任中の主な出来事だが、そのほかにも、以前の台湾は国家よりも国民党が上位に位置するという、まるで現在の中国と似たような政治体制であったが、李氏は総統就任以来4年をかけて国家が党の上位に位置させることに成功した。また、国民党に属していた軍も(これまた現在の中国とよく似ている)国家に属する軍へと変貌させた。また、政治だけでなく、文化面でも成果が現れている。李登輝時代になると台湾独自のホーロー語(台湾語)が復権し、ホーロー語のテレビ番組やホーロー語歌謡が人気を博すようになった。97年からは台湾で初めて(郷土史という位置づけだが)台湾史の歴史教育が行われるようになった。しかも日本の植民地時代を客観的に評価するなど、従来の中国式歴史観からの解放も見られる。李登輝氏の民主化、本土化、平和への戦いは総統退任後も続く。


2001年の7月に李登輝氏が精神的指導者を務める台湾団結連盟が結成され、同年12月の選挙で13議席を獲得する大躍進となった。
日本ではじまった台湾正名運動は、台湾本国に飛び火し、2002年に台北でデモが行われた。2003年の9月には15万人による大規模なデモが行われた。いずれも李登輝氏が召集人を務めている。
2004年2月28日には李登輝氏が召集人となって250万人が台湾の北から南まで手をつないで、台湾正名を訴えた。250万人という人数は旧ソ連末期のバルト三国による人間の鎖に匹敵する世界史上最大規模のものである。それが人口2300万人の台湾で行われたというのはまさに特筆物であり、李登輝氏が主導したからこそ実現できたといえるであろう。

意外なことだが、独裁国家が段階的な改革を経て民主化した例はあまり多くはない。多くの場合、民主化とは革命、暴動、戦争などによって達成されている。12年の歳月をかけて台湾を独裁国家から民主国家へと変貌させた李登輝氏の手腕は世界史上でも異例である。
これらを振り返ってみても、李登輝氏はノーベル平和賞を受賞する資格が十分あると言っていいのではなかろうか。先に挙げたアジアのノーベル平和賞受賞者と比べても決して見劣りはしないと思う。李登輝しはすでに96年と98年にノーベル賞の候補となっている。受賞者の多くは何度か候補になってから受賞している。そろそろ機が熟しているのではなかろうか。今年あたり、そのときが来るかもしれない。
李登輝氏は台湾のみならず、日本や欧米でも尊敬されている。特に今日の日本人の台湾に対する思い入れの強さは李登輝氏によるところが大きいのではなかろうか。そういう意味では李登輝氏は世界平和にも貢献しているといっていい。名前は忘れたがどこかの国のどこかの国に駐在している大使は李登輝氏のことを「戦争メーカー」と称していたが、私から見れば李登輝氏は民主と平和の象徴である。

今年の秋、オスロでどのような決断が下されるのかに注目したい。

 

     

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