いつになったら台湾隊を応援できるのか


 十年以上前、まだ私が高校生だった頃、『週刊少年ジャンプ』の「キャプテン翼ワールドユース編」ではワールドユースのアジア一次予選が行われようとしていた。一次予選で日本と同グループに入った国々を見て、私はマンガの中の出来事とはいえ不可解な印象を受けた。日本と同グループに入ったのはタイ、グアム、そしてチャイニーズ・タイペイであった。「チャイニーズ・タイペイ、なんだそりゃ」。チャイニーズは中国人、タイペイは台湾の首都ということはわかったがあとは意味不明であった。そのときは主力が戦線離脱していた日本が強豪タイに勝てるかどうかが重大問題であったので(マンガの話ではあるが)それ以上はあまり深くは考えなかった。
 2年後の1995年、今度は現実の話になるが、サッカーのアトランタオリンピックアジア一次予選が行われ、タイとチャイニーズ・タイペイが日本と同グループになったのだが、私はこの時にチャイニーズ・タイペイが台湾のことであることを知った。台湾、もしくは中華民国という国名があるのになぜこんな不可解な名前を使うのだろうかと私は疑問に思ったが、日本代表の快進撃のほうに心を奪われたのでそれほど深くは考えなかった。
 毎年オリンピックやアジア大会や野球の国際大会が行われるたびに、「チャイニーズ・タイペイ」という不可解な名称のチームが参加して首を傾げる日本人は多いのではなかろうか。不思議に思いながらも、スポーツの結果のほうが重要だからあまり深く考えないまま、大会が終わればその不可解なチーム名のことも忘れてしまう。その繰り返しではないか。
 台湾は国際スポーツ大会において台湾(Taiwan)、中華民国(Republic of China)、いずれの名称でも参加することが許されていない。中華台北(チャイニーズ・タイペイ)という不可解な名称での参加を余儀なくされている。それが中国からの圧力と複雑な国際関係が理由であることは読者の皆様も容易に想像つくであろう。だがこの不可解な名称が使われることになった経緯をご存知の日本の方は少ないと思うので、ここでごく簡単に紹介することにしよう。
 1948年のロンドンオリンピックでは中華民国がオリンピックに参加することは何も問題はなかった。面倒なことになったのは1949年に中華民国政府が中国大陸におけるほぼ全ての領土を失い、台湾に移転してからである。中国に3人いたIOCの委員は2人が台北にわたり、1人が北京に留まることになった。 
 1952年のヘルシンキオリンピックではIOCは政治に関わることを避け、二つに分かれた3人のIOC委員にオリンピックの招待状を送った。結果として中華人民共和国は参加したが、中華民国は結局参加しなかった。「事情により不参加」という不可解な理由からである。
 1956年のメルボルンオリンピック(この時は事実上台湾のオリンピック初参加とも言える)では、IOCは「北京中国」と「台北中国」という二つのチームに招待状を送っていた。この大会のとき、中華民国チームは早めにメルボルンに到着し、選手村に乗り込んで晴天白日旗を掲げた。あとから来た中華人民共和国チームがそれを見て激怒、本国に引き上げてしまった。それでも中華民国チームには不満が残った。IOC(国際オリンピック委員会)は選手たちの胸のマークに「China」ではなく、「Taiwan」を表示するように義務づけていたからである。現在の我々の考えからすれば、IOCの命令は現実的で開明的なように見えるが、当時の台湾しか支配していない中華民国の連中がどうしても大中華の虚構を捨て切れなかったことを我々は知っている。
 その後中華人民共和国はIOCから脱退し、オリンピックをボイコット、中華民国側に状況は有利に展開すると思われたが、「中国」の代表であることを強硬に主張し続ける中華民国の態度はだんだんと自らを締め付けていくことになる。
 1960年ローマオリンピックでは中華民国は「オリンピックをボイコットする」と脅してまで「China」の表示にこだわったが、IOCも頑なに態度を変えなかった。中華民国は開会式で「抗議」という文字を書いたプラカードを持って入場行進した。とはいってもテレビがまだほとんど普及していなかったこの時代に、この異様なプラカードが世界の人に知らされることはほとんどなかったし、ローマの観客は「抗議」の字の意味など理解できなかったであろう。この大会では陸上の十種競技でアミ族の楊伝広が銀メダルを獲得した(事実上台湾初のメダル獲得と言えるであろう)。
 1964年の東京オリンピック以降でも、中華民国の主張が受け入れられることはなかった。その後、中華人民共和国は国連にも加盟し、文革も終結し、国際社会に次々と復帰するようになってオリンピックにも復活した。気がつくと中華民国は非常に弱い立場に追い込まれていた。中華人民共和国は「中国を名乗る二つのチームが存在することは認めない」という強気の姿勢に出た。中華民国政府は非常に苦しい立場に追い込まれ、結局アメリカのいう「チャイニーズ・タイペイ」というチーム名を受け入れざるを得なかった。これを呑まなければ台湾は世界のどの大会にも参加できなくなってしまう。さらに国旗掲揚や国歌を演奏する権利も手放さざるを得なくなった。この不可解な名称が用いられるようになったのは1984年のロサンゼルスオリンピックからである。それまでは少なくとも晴天白日旗を掲げてはいたし、国家である三民主義を演奏する権利も持っていた(とはいっても中華民国はこれまで金メダルを獲得したことのない弱小国であった)が、ロスオリンピックからは代替の旗と歌を用意しなければならなくなった。これについても簡単に説明しよう。
 まず下の旗はご存知の方も多いであろう。左側は中華民国の青天白日満地紅旗である。多くの台湾人にとっては外来の中国の旗であって台湾の旗とはいえない。右側の国民党の党旗を見ればわかるとおり、中華民国の国旗は国民党の党旗と類似しており、多くの台湾人にとって受け入れがたいものとなっている。しかし1949年以降は事実上台湾のみで使われており、20世紀末頃の親台派の日本人の間では青天白日満地紅旗に親近感を持つものも少なくなかった。この旗は1970年代のオリンピックまでは確かに中華民国の国旗として使われていた。

     


 しかし1984年のロサンゼルスオリンピックからは左下のようなオリンピック委員会旗が使われるようになり、FIFA主催の国際サッカー大会には右下のサッカー協会旗が使われる。

     


 それにしても中華台北とは奇妙な名だ。なぜ台北なのか?なぜ台湾ではないのか。中華台北の選手には台北の人しかいないのか?もちろんそんなはずはない。台湾全土から選ばれているはずである。
 一般的に台湾のマスコミでは中華隊と表記している。台湾と中国が試合をするときは中華対中国、中華対中国大陸と表記している。このような不可解な状態をいつまで続けるのであろうか。中華民国が中国の政党政権などという虚構はとっくの昔に誰にも相手にされなくなっている。ならば堂々と台湾隊と呼んで応援すればよいではないか。我々日本人は日本隊を何の疑いもなく応援する。台湾人も中華隊ではなく、台湾隊を何の迷いもなく応援すればよい。
 もちろんこれには国際政治上の障害が存在するのでそう簡単には進まないであろう。こういう改革は上からではなく下から進めていくべきである。我々民間人が中華隊ではなく、台湾隊と積極的に呼んで定着させるのである。この動きはすでに進みつつある。ワールド・ベースボール・クラシックのアジアラウンドでの際には自由時報や台湾日報では台湾隊という表記が用いられていた。
 また3月5日の台湾対中国戦で台湾が12-3で圧勝した後のヒーローインタビューでは、陳選手が台北隊を台湾隊と訂正する場面も見られた。以下に再現してみよう。


日本人アナウンサー:「この大会、まあ、チャイニーズ・タイペイ代表とし
て戦ってきたんですが、あらためてこの大会を振り返って如何でしたか?」

中国人通訳:「今回台北隊の選手として大会に参加して(観客からブーイン
グが始まる)、大会を振り返って如何ですか?」

陳[金庸]基選手:「私は、"台湾隊"を代表して(観客の大歓声)この大会
に参加することが出来て嬉しいです。いい経験になりました。」

中国人通訳:「台湾の代表として今回大会に出場出来まして本当に嬉しく思っ
ています。とてもいい経験でした。」

 日本人アナウンサーがチャイニーズ・タイペイ代表と言ったのを通訳が台北隊と訳すと台湾人観衆からブーイングが起こり、陳選手が台湾隊と発言すると観衆から大歓声が沸きあがった。すでに台湾人の間では中華隊ではなく、台湾隊を応援しようというムードが生まれているのである。今回のWBCでは台湾隊は残念ながら1次リーグで敗退したが、これからも我々は日本隊とともに台湾隊を応援しようではないか。

 そして近い将来、チーム名を正式に中華台北から台湾に変更しなければならない。幾多の困難はあろうが、国名を中華民国から台湾共和国に変更するよりも障害は低いはずである。台湾正名運動の一環としてぜひとも実現しなければならない。そして国旗は下に表示した台湾旗を台湾の国旗として掲げたいものである。

台湾隊、加油!!
 
 

     

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