蒋介石国民党の圧制ー台湾人政治犯

一人の台湾人の自由への戦い

謝聡敏

 

一 思想犯

私はビラが入った三つの大きなトランクと一緒に、中型の軍用ジープに乗せられ、西門町にある奇妙な形の、高い塀に囲まれた建物に連れて来られた。鉄の扉が開かれると、目前には陰鬱な、三階建ての日本式の寺が広がっていた。私は両脇を二人の私服警官に挟まれ、左手にある平屋の一室に連れて行かれた。この恐ろしい雰囲気のせいで、ここが悪名高い地獄の「東本願寺」であることがわかった。

一九四五年に国民党の台湾統治が始まって以来、ここは秘密警察である「特務」の拷問監獄になっていた。多くのエリート達が東本願寺に投獄されたが、ここから生還した者はほんの僅かだった。東本願寺に投獄された者は拷問中に死ぬか、軍事裁判にかけられ、死刑、無期懲役、又は有期刑の判決を下されるのであった。

その部屋は幅四メートル、奥行き五メートルほどで、隅に木製のシングルベッドが置いてあり、中ほどには取り調べ用の机があって、一方に役人用の長椅子、もう一方には囚人が座る椅子があった。私はその犯人用の椅子に座らされた。白い天井から一筋の電線が垂れ下がり、裸電球が一つ、蒼白で脂ぎった顔を照らしていた。私は疲れをおぼえた。既に二日間、全く眠っていない。私は勾留手続の書類を書いている年とった士官にそっと尋ねた。「背が高くて片腕の、四十くらいの男を見ましたか?」老士官は、よけいな事だというように私をじっと見て、それから軽くうなずいた。私はまた聞いた。「もう一人、背が低くてずんぐりした男もいなかったですか?」老士官はまた軽くうなずいた。そうだったのか。彭明敏教授と魏廷朝も、東本願寺に送られていたのだ。

私達三人は昨夜、一緒に逮捕された。承徳路のある小旅館で、刷り上ったビラを三つの大きなトランクに詰め、他の場所に預けに行くところだった。警察が旅館を包囲し、私のシャツの襟を掴み、殴り付け、そして腕をねじりあげて、パトカーに押し込んだ。それから二人を見ていないのだ。

私達は未発表の、ある文章を印刷したために逮捕されたのだった。
この文章には「台湾自救運動宣言」という題がついていた。四十年後の台湾はこの文章と事件の「四十周年記念会」を開催したが、私はこの事件のために、迫害され嘲笑され、辛酸を舐め尽くしたのである。

私が「台湾自救運動宣言」を書いたのはなぜか。
それは、私が高雄の鳳山陸軍軍官学校(陸軍士官学校)で教鞭をとっていたことに起因する。そこで同僚のある退役将軍が私に、台湾の前途についての話を始め、台湾の現状についての議論をしかけてきたのだった。

当時、台湾は蒋介石が統治していた。蒋介石は台湾を「大陸反攻」の基地にすべく、五十万人の軍隊を引き連れて中国から撤退してきた。膨大な数の軍隊と、どこにでも入りこむ「特務」――特殊な任務を行う秘密警察――が台湾を統治し、あの「白色テロ」を行って、異分子を排斥し、台湾のエリートを虐殺した。

この退役将軍は陸軍士官学校の学部主任で「?主任」と呼ばれていた。?主任の上官は「クーデター」を企てた為に長年軟禁された、かの孫立人将軍だった。

「孫立人将軍は、この鳳山で新兵を訓練するよう命令されて、台湾に来られたんですよ。」?主任は私の独身寮の部屋で椅子に座って、小さな声で言った。「孫将軍は台湾の士官を一大隊に編成するということで、私は大隊長に任命された。孫将軍が捕まった時には、私はちょうど台北砲兵学校で訓練を受けていたので、難を逃れたんです。私は第二次世界大戦が終わった時には小将だったが、台湾に来てからは大佐にされた。孫将軍の昔の部下は皆、不安を感じて退役していきました。私は清華大学を卒業して、シカゴ大学で生化学を学んで修士を取り、バージニア軍学校(Virginia Military Institute)も卒業したので、ここの主任に招聘されたんです。」

孫立人将軍も清華大学とバージニア軍学校を卒業しており、つまり?主任の先輩であった。
「孫将軍が主任に、台湾の士官大隊を訓練させようとした?」私は驚いて聞いた。
「もちろん、将軍は心中をはっきりとは言われなかった。陸軍総司令官であったし、アメリカの信頼もあり、独裁で腐敗した蒋介石に代わるには、最も有力な人物だった。将軍が台湾の士官の大隊を編成するのは、もちろん戦略上の配慮があったからですよ。」と、彼は認めた。
「台湾ではたとえ腹の中で悪口を言っても抹殺され、雑談の一言でも特務に捕まる。主任の話もそうなりかねないですよ。だいじょうぶですか。」と、私は、困惑して問いかけた。
「蒋介石のせいで、台湾はどうなると思います?世界では孤立しつつあるし、もし中国が冷戦を破ったら、台湾はもう国際的な立場を失う。早く蒋介石の統治を終結させて独立を求める以外、台湾に未来はないですよ。」
「どうして私にそんな話をするんですか?」私は話をそらしてみた。
彼は私をちらと見て、ゆったりと茶を一口飲み、じっくりと味わってから、淡々と明るく言い放った。
「先生は台湾人で、政治学をやって、士官学校で教えている。革命をしにきたんでしょう? 他の目的がありえますか?」

私は机の傍の椅子に座って彼を見ていた。机の前の窓から日が差し込んでいて、私の手にはまだ、開いたままの新聞があった。彼が部屋に入ってきた時には、アルジェリアの反乱軍がフランスに抵抗しているという記事を読んでいたのだ。中国はアルジェリアの革命を支持し、ドゴールは植民地問題のために、世界で孤立していた。フランスはアルジェリアがフランスの一部であり不可分であると主張していたのだが、アメリカはそれを支持していなかった。中国(中共)は国連に加盟していなかったが、フランスは中国にアルジェリアの支援を止めさせ、フランスに支持を取りつける必要があった。台湾は確実に孤立へと進んでいた。私は新聞を丸め、アルジェリア戦争の記事のところを彼に指し示した。
「私は台湾のラファイエット将軍になりたいんです。」
と、彼は続けた。「ラファイエットはフランスの将軍です。アメリカの独立戦争が起きた時、彼はアメリカに渡り、蜂起してイギリス軍に抵抗するアメリカ人を指導しました。私は台湾に何かを求めてはいません。ただ一軍人としての職務を果たし、孫立人将軍との知遇の恩に応えるだけです。私の息子は台湾人の嫁をもらい、孫は台湾籍に入れました。台湾が独立した後は、世界中を旅したいですな。第二次大戦の後は軍事視察団に二度参加して各国を回り、北アフリカにも行きました。アルジェリアのフランス人は二百万人で、ちょうど台湾の外省人と同じくらいです。反植民地主義の世界の中でフランスは、アルジェリアは不可分の、フランスの一部であると主張しているが、それは台湾が中国から不可分であるというのと同じくらい馬鹿げている。中共がアルジェリアの独立を支持するなら、台湾の独立も支持すべきですよ。」
その日のニュースが、?主任の大弁論を引き出したのだった。

以来、私は真剣に軍隊と政治の問題を考えるようになった。陸軍士官学校の図書館と高雄アメリカ文化センターには、軍隊に関する蔵書が沢山あった。ある文集を見ていた時、レルナーの、革命と軍隊の関係を考察する文書をみつけた。

軍隊が動かなければ革命に影響を及ぼすことはないが、軍隊が革命中に動けば、ただちに影響を及ぼす。フランス革命とオーストリア?ハンガリー帝国の革命は同時期に起こったが、フランス革命は成功し、オーストリア?ハンガリー帝国では失敗した。研究者は両者の勝敗の要因を分析して、フランス革命では軍隊が蜂起した民衆とともに政府に対抗し、それが成功の要因となったとしている。オーストリア?ハンガリー帝国の統治下では、オーストリア軍がハンガリーに駐留し、ハンガリー軍がオーストリアに駐留していたため、民衆が蜂起した時、軍隊は民衆と対立した。政府は鎮圧のために軍隊を派遣し、軍隊は自衛の為に、全力で蜂起した民衆を撲滅しなければならなかった。そして、オーストリアとハンガリーの革命はどちらも失敗したのだ。


台湾の大部分の上級士官は、中国大陸の出身者である。五十年代と六十年代には、軍隊と国民の対立は改善できなかった。私が陸軍士官学校で教えていたのは六十年代である。士官学校では、台湾人の割合はわずか三分の一だけだった。台湾では大部分の軍人とその家族は、竹垣に囲まれた「村」の中で暮らしていた。国民党政府はこの村を取り囲む「竹離芭」と呼ばれる垣根で、軍人と当地の人民の住む地区を隔離していた。
「なぜ竹垣を取り払って、軍人の家族が台湾人の中に入れるようにしないのですか?」私は軍官学校の曹という先生に尋ねた。
「士官の供給元だからです!」と、曹教師は答えた。「彼らの子々孫々がすべて士官になってほしいからですよ。政府は彼らに家族手当を支給している。人口が増えれば、手当も増える。それも一種の報奨です。」
私はクーデターには期待していなかったが、?主任から台湾の指導階層に紹介してほしいと頼まれたので、わざわざ台北に行って台湾大学法学院の彭明敏教授に会い、?主任の「台湾のラファイエット将軍」になりたいという希望を説明した。
「君は士官学校で既に目立っている。長居は無用だよ。すぐ帰りなさい。」
私はもとより?主任の意思を伝えるために彭教授の門を叩いた。しかし私は地獄に送られ、台湾の「ラファイエット将軍」を口に出すことはできなくなった。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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