蒋介石国民党の圧制ー台湾人政治犯

一人の台湾人の自由への戦い

謝聡敏

 

二.中華台湾国

落ち着いた感じの、中年の私服士官が二人やって来た。カーキ色のズボンと黒の軍靴で、彼らが軍人であることが見てとれた。手にはビラを持っており、机を挟んで向こう側のソファに座った。水色のシャツを着た男は、乾いてかさかさの顔に穏和な微笑を浮かべ、言葉を尽くした話しぶりに、彼の情熱が表れていた。もう一人の白いシャツを着た小太りの男のほうは、黙って座っているだけで全く表情を変えなかった。
「台湾人がここを地獄と呼んでいるのを知ってるね。」彼はゆっくりと言った。「我々はここで、地獄に落ちる者を救いもする。上層部があんた方をここへ送ってきたのは、あんた方の社会的地位を考慮してのことだ。我々が敢えて反体制分子を作り出していると批判する者は多いが、それは違う。我々の仕事は反体制分子を友に変えることであって、多くの者がここから出て、ずっと我々の為に工作している。きちんと話をしさえすれば、帰れるように上司に言ってやれるんだよ。」

彼は同じ語調で、何度もこうした話を繰り返した。その目には驕りがちらついている。台湾での国民党の統治は、幾度もの殺戮を繰り返し、反対の声はとうに消えていた。それでも特務は絶えず標的を探し、反体制分子を作り出していた。私はすぐに、この男たちが恐怖の特務なのだと知った。

二日にわたる取り調べで、私は眠気を覚えていた。警戒はしていたが、すでに特務の掌中に落ちて手も足も出ない。私達の印刷物は特務の手にあって、彼らのほうが優勢なのだから、私はただ黙々と聞いているだけだった。彼はまた言った。
「我々は戦乱や対日戦争や、中共との闘争をくぐりぬけ、鍛錬を忘れず、敵に致命傷を与えてきた。いわば無敵なのだ。目には目を、歯には歯を、絶対に引き下がりはしない。我々が台湾に来なければ、台湾はとうに中共の手に落ちていただろうし、あんた方も良い教育を受けるチャンスは無かっただろう?大陸の人民が苦難に満ちた生活をしているのを知っているかね?我々の多くは故郷を失い、家庭を失い、仕事を失い、言い尽くせない苦痛をなめて、忍耐などはとうに無い。あんた方は独立して中国から離脱するなどと夢見ているが、中国が離すと思うか?歴史上、どれだけ多くの地方が独立を求めて、中央に無情に潰されたことか。反対に中国はどんどんふくらんでゆく。『合久必分、分久必合(長く合わさっていれば必ず分かれ、長く分かれていれば必ず合わさる)』――これが中国の歴史の鉄則だ。この鉄則にはむかったら、我々は台湾で生存できなくなる。ただ我々は先手を打って、一人ずつ殺していくことが出来るだけなのだ。しかし上が真相の究明を指示したからには、あんたも事情を詳しく話しなさい。我々は秘密など守らせないよ。もし、少しでも秘密を持っていることがわかったら、すぐに連れ戻されることを忘れるな。」
「国民党政府も中央政府ではない。中共もまたあんたたちを地方政府とみなしている。中国は、台湾は中国の一部分だと言ってるでしょう。」と、私は冷やかに言った。

国民党の役人達の最大の誤りは、中国を統治する地位を失った現実と、中共と共存はできないことを、認めようとしないことである。「漢賊不両立、王業不偏安(漢と賊は両立せず、王は地方に安住しない)」――私の目的は「平和的共存」を促すことなのだ。
「おまえ達知識分子の考えることは片思いだよ。中共と平和共存したくても、中国は生存の機会を与えはしない。」と、彼は首を振りつつ言った。
「こちらが中国を国連に加盟させれば、どちらも加盟国として国際的な保護を受けられ、平和共存できるじゃないですか。」

当時、台湾はまだ国連に席があり、中国はまだ加盟していなかった。台湾は国連で、平等な立場で共存する環境を整えてから、中国を加盟させる機会を十分に有していたのに、国民党政府がその機会をみすみす逃してしまったのだ。
「大陸反攻と国土回復は疑う余地のない、神聖な我々の使命だ。」彼は怒鳴った。
彼はまた続けて、いくつかのスローガンを言った。興奮のあまりか、震える顔には苦悶の表情が浮んでいた。私は沈黙し動かなかった。

白いシャツを着た特務は、敵意を含んだ厳しい眼差しで私の顔を睨んだ。
「今の状況をきちんと認識したほうがいい。こちらは犯罪の事実を詳しく調査する。おまえは事情をきちんと説明して、過ちを認める。まずこちらがおまえの過ちをわからせてやるから、それから事実を説明するんだ。」
もう一人の特務がやっと口を開いた。彼ら二人は私の闘争意欲を削ごうと、一人が言えばもう一人がそれに唱和し、私の防戦を破る機会をうかがっていた。
「この文章はどうしたんだ?言ってみろ。」水色の服の特務が、苛立ちを抑えたふうで言った。
「私が書いたんです。」
「おまえが思想の責任を負わなくてもいい。おまえが言わなくても出所は調べられるが、お前が自分の口から説明し、身の潔白を証明する機会をやってるんだぞ。おまえには前途があるんだから、こんな所で葬られることはないだろう。これは外省人が書いたんだろう。台湾人を利用して我々に対抗する外省人もいるんだ。」
「誰のことです?」
「誰だ。自分で言え。」
「原稿を書いてくれる人など知りません。」
「お前を喋らせることはできるが、先に自分から言わせてやってるんだぞ。」
「無実の人間を傷つけるのはよくない。私は法学部を出て、政治研究所でも学んだ。私は思想を研究する人間なのだ。」

特務は空中を旋回して獲物を探す両翼を広げた禿鷹のようだった。「おまえが他人に代わって罪を着る必要はない。台湾人を煽動して社会を攪乱しようとする悪い外省人もいる。この文章をどうやって書いたのか言ってみろ。」
「私はただ、今日の台湾の国際的地位や、外交、軍事、経済、社会などを簡明に分析して、外省人は台湾人と共同して一国家を建設し、歴史のしがらみを捨て、平和と繁栄の機会を求めるべきだと主張した。それだけです。」

私はこの文章を書いた経過を思い出した。高校在学中にルソーの「懺悔録」を読み、大学一年生の時には時折、書店で英文の世界政治思想家文選を見ていて、その中にルソーの「民約論」があったので購入した。その本の中に、マルクスとエンゲルスの共産党宣言があり、一年生の夏休みのうちに何度も読んで、クラスメイトの魏廷朝とも議論した。マルクスの著作は禁書だったが、彼は図書館でアルバイトをしていたので、私を哲学科の図書館に案内してくれ、そこでマルクス全集を読んだ。マルクスの著作は読みにくかったが、共産党宣言は簡潔でわかりやすく、プロパガンダの模範とされているのだということがよくわかった。だが、そんなことを言うわけにはいかなかった。言ったら私は「紅帽子(アカ)」――台湾で最も恐ろしい罪名――のレッテルを貼られてしまう。私は防戦して持ちこたえなければならなかった。
「これを書いたなら、参考にした文献や本がたくさんあるだろう。どれを読んだか言ってみろ。」

日本統治時代にも、台湾には農民運動や文化運動などの啓蒙運動があった。私の故郷である彰化の二林地区は、まさに農民運動のメッカであった。日本は台湾でサトウキビの栽培を進め、林本源株式会社が渓州に砂糖工場を作った。農民が植えたサトウキビは、必ず製糖工場が採取しなければならなかった。サトウキビ車が小型鉄道の線路に沿って、サトウキビを製糖工場まで運び、重さを量った。農民達の間には、製糖工場がサトウキビの重さをごまかす話が伝わっていた。ある日、二林地区の保正(現在の村長や里長にあたる)十三人が、サトウキビ車について工場に来た。製糖工場の係員が重量を言うと、十三人の保正たちはもう一度量るように頼んだ。それから十三人保正が全員、サトウキビ車に乗った。十三人の保正の体重が加わっても、重量は五キロしか増えなかった。つまり、十三人の保正は五キロの重さだったという笑い話である。私が小さい頃は、「一番バカなことは、サトウキビを植えて製糖会社で量ること。」と言われていた。農民運動はサトウキビ農民のストライキから始まった。二林の農民はサトウキビの収穫を拒否し、百人あまりの農民と三十数人の監督官、警察官九人が衝突した。警察は刀を抜き、農民は投石して戦い、民衆九十三人が捕まった。そこで、私は幼い時から台湾の民主運動に関心を持っていた。大学二年生の時、私は法学部の図書館で、親戚の謝春木が書いた「台湾人の要求」を借りた。それには台湾の民主運動の過程が書かれていた。

突然、私はまた謝春木が第二次大戦前に中国国民党政府に参加し、戦後は蒋介石によって日本へ派遣され、また日本から北京に行ったことを思い出した。もし私がこの話をしたら、「共匪物語」になるに違いない。私は口をつぐんだ。
「この文章の思想はどこから来たのか、言ってみろ。」
水色のシャツの特務がまた催促した。
「一九五九年ごろ、カリフォルニア州立大学のスカラピノ教授が「康隆報告」の中で「中華台湾国」を主張した。台湾の聯合報、自立晩報にも掲載されたから、多くの人が読んだはずだ。私の政治研究も、台湾の前途を考えている。」
と、私は簡単に答えた。

五月のある晩、私は彭教授を温州街の宿舎に訪ねた。その宿舎は日本式家屋で、畳の上に木製の椅子が置いてあった。彭教授夫人はお茶を出した後、彭教授と私を話しやすいように二人きりにしてくれた。彭教授は、日本にいた台湾の左翼革命家、史明の日本語の本「台湾四百年史」を教えてくれた。また、ロンドンで出版された「中国季刊」についても話してくれ、最近号のテーマは台湾で、内政、経済、軍事、外交と未来を討論していたのだが、あいにく彭教授の手元には本が無かった。私は、史明もおそらくタブーなので、特務には話せないのを思い出した。そこで私は彼の身の安全を考えて、ためらいながら言った。
「殷海光教授が、カール・ポッパーの『社会とその敵の開放』を読むようにと教えてくれました」私は続けて言った。
「何度も読みましたが、この一冊が私に最も大きな影響を与えた本です。マルクスを含む多くの偉大な哲学家の思想を批評しています。」
囚人室の扉が開いた。特務は四時間ごとに交代していて、次の二人が入って来た。四組の特務が交代で私を詰問し、これは第二組だった。先に入ってきたのは背の低い中年の男で、無表情で、こせこせした感じだった。もう一人は、ほっそりした、少し若い男だった。ほっそりした男は部屋の隅のやかんから三杯水を入れ、一杯を私にくれた。私は礼を言った。
「普通の人間は我々を見ると腰を抜かして、許してくれと泣きわめくが、おまえはまだそんなに余裕があるんだな。」と背の低い方が皮肉って言った。
「正直に言うといい。捕まるまで、殷海光の所へ何回行った?殷海光の原稿は一回か、それとも何回かに分けて渡されたのか?」
「外省人の殷海光教授がそんなものを書きますか?」
「殷海光は台湾人を煽動して、大陸反攻は不可能だと言っているから、当然台湾人と外省人は協力して政府を覆せと、こういう文章で煽りもするだろう。この文章は外省人の為に書いたのだ。あいつだろうと見当はついていた。あいつは軍人も扇動して総統暗殺を企てている。」
「殷教授はひ弱な学者ですよ。暗殺なんかするものか。」
「皆知っているぞ。雷震が野党を組織したのも、殷海光にそそのかされたのだ。雷震の野党も外省人がトップになって、政府を倒そうとした。あの事件もここで扱っているんだ。殷海光と彭明敏はどう連絡しているか、正直に言え。」
「はは!殷海光教授は私達に警告していましたよ。国民党は彭教授を丸めこもうとして、彼に十大傑出青年の名誉を与え、陽明山会議に参加させるから、きっと台湾人を裏切るだろうと。殷先生も私達のために原稿を書いたりはしませんよ。問題が起こった時に、教えを請うだけです。」

私はこのこせこせした特務が殷教授を陥れようとするのを、必死にくい止めなければならなかった。私は原稿を書いていた時、夜半に一人で殷教授を訪ねたことがあった。教授は庭にある小さな書斎で私と会った。八月初旬の暑い夜だった。家の小路の入り口にはいつも夜の九時まで特務が監視していたので、私は十一時を過ぎてから門を叩いた。教授は半袖のシャツを着て、薄く弱々しい胸が見えていた。私は教授に言った。「先生は民衆に、圧制を拒むことをすすめておられますが、もしある日台湾人が決起したとして、啓蒙運動に対する先生の貢献を知らずに、先生を傷つけたらどう思われますか?」
彼は、こぶしを握り締めて、薄い弱々しい胸を叩いてこう言った。
「喜んで受けるよ!」教授の言葉に、私は深く感動した。このおかげで、私は宣言の中で何度も、台湾人と外省人は偏見を捨てて協力すべきだと主張している。この私の道徳上の訴えが、今日彼が追求される根拠になろうとは、思いもよらなかった。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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