蒋介石国民党の圧制ー台湾人政治犯

一人の台湾人の自由への戦い

謝聡敏

 

四.盗まれた宣言

一九六四年、蒋介石が統治する台湾はまだ熱狂的な反共時代であった。第二次世界大戦中の青年はみな、日本の軍国主義教育のもとで育った。日本の軍国主義を批判する青年は暗闇の中で希望を探り、ある者は西洋の自由主義に傾き、ある者はソ連と中国の共産主義に共鳴した。戦前の彭教授は日本の軍国主義に反対し、従軍を拒絶した。当時、文科の台湾人大学生は従軍させられていた。東京帝大で学んでいた彼は、従軍登録をしていない学生に呼びかける学内放送で、彼の名前が呼ばれるのを聞いた。彼は密かに大学を離れて長崎に行き、医師である兄を訪ねたのだが、長崎で米国の空襲に遭遇し、片腕を失った。東大の先輩であり教授をしていた楊基銓氏が、台湾に戻って宜蘭郡守をしていた。楊氏は私に、第二次世界大戦中、良心ある青年はみな社会主義者だったと話してくれた。彭教授は戦争を拒否し、自由主義的な理想を抱いた。彼は原稿の作成中、共産主義的な色彩を持たせてはならないと再三言われた。

不眠不休にさせ自白を強要する疲労尋問で、特務が反復して質問をしてきた。
「彭明敏はフランス留学中にどの左翼の文学者と学者に接触したんだ?周恩来はフランスに留学して持ち帰ったのは社会主義だ。今のフランスの学生も社会主義に深く影響されている。彼らは三十年代の人類の理想はソ連にあり、六十年代の理想は中国にあると言う。自由主義者は死に絶えた。彭明敏と殷海光も同じだ。フランスではまだ学生運動が盛んだ。日本も反安保で、指導者は自由主義者の有名な学者だ。国家の安全を左右する学術思想を大学教授に教えさせるのは危険だ。学校はやはり軍人が管理する必要があるだろう。違うか?」

私は木のベッドに横たわって傷を癒しながら、特務が疲労尋問で話したことを思い出していた。確かに彼らが話したことは、彼らの意見――彼らの本音――を表しているのだ。

一八九八年にフランスの作家ゾラは、ユダヤ人士官ドレフュス大尉の反乱の冤罪を救うために、「私は弾劾する」を書いた。その後首相になった国会議員のクレマンソーが、政治に関係する文筆家、学者を「知識人」と初めて呼ぶようになった。彭教授と殷教授は「知識人」の役割を果たしていたのだ。クレマンソーは「戦争を軍人に委ねるのは荷が重過ぎる。」と言った。今の国民党政府は反対に、学術思想は国家の安全を左右するから大学教授に委ねるのは危険だと言うのだった。

だれかが私の身体を揺さぶった。私は本能的に手で身構え、眼を開くと、萎びたかさかさの顔が目の前で動いていて、声が聞こえた。
「ビラは一体、何枚印刷した?」
たった一週間だが、私はすでに特務の侮辱には慣れてしまっていて、体を横にして簡単に答えた。「一万枚。」
疲労尋問で頭は朦朧としていたが、それでも起き上がってズボンを履き、白シャツをひっかけて椅子に座った。萎びた顔の男は慌てふためいた様子で机の横に立っていた。
「なぜ二百枚少ないんだ?」
私の目はくらんでいたが、彼の質問が目を覚まさせた。すっかり落ち込んでいたが、この質問は私に一縷の希望をもたらした。
「誰が持ち出したんだ?」彼は懇願するように聞いた。
「印刷屋の主人か近所の子供でしょう。持ち出せば密告できるし、もちろん売ることもできます。」
「もう調べたが取っていない。」
「旅館の女中かな?警察は?警察はいつも窃盗団とグルになっているという話しを聞くし、人を殴るくらいだから、当然盗みもするだろう。」
「彼らもやっていない!」

印刷のいきさつも、はっきりと私の脳裏に浮んで来た。
一九六四年にはまだコピー機が発明されていなかった。大量の広告を印刷するには、タイプか活版印刷の二つの方法しかなかった。手書きは筆跡を残すので非常に危険であった。私の事務所は仁愛路の中日文化協会ビルにあった。中日文化協会には美人のタイピストの女性がいた。私は何度も彼女に近づき、タイプを頼もうとしたが、口に出せなかった。そこで、萬華の印刷工場の黄社長を思い出した。黄社長は政治大学の卒業生の黄文雄が紹介してくれたのだった。

私は政治大学の研究所(大学院)の寮に住んでいたことがあって、研究所の食事が学部より少し良かったので、多くの学部生が研究所に食事に来ていた。新聞学部の学生であった黄文雄はその食事仲間として知り合ったのだ。彼は時々夕食の後、私とクラスメートの史静波と一緒に、指南宮の階段を登った。史静波は大学一年生の時、李敖と同じクラスだったので、よく文星書店(当時前進的な本を出版していた出版社)の話が出た。史静波はちょうど、英国の政治学者ラスキの思想についての論文を書いていて、彼が晩年の親ソ言論によって自由主義の立場を失ったことを惜しんでいた。私たちもバーナード・ショーやウェッブ夫妻のフェビアン協会の人物が、ソ連を訪れた際の言論が集団農場や強制収容所の残酷さに触れていないことや、ラスキと『一九八四』年の作者オーウェルの思想を比較したりした。

私は陸軍官校で教鞭をとり、黄文雄も鳳山歩兵学校で訓練を受けていた。休みの度に、彼は軍服姿で私の寮を訪れ、軍隊についての意見交換をした。私は今回の宣言の中でも、その時の意見を盛り込んでいる。その後、彼は兵役で金門へ行くことになったと手紙を書いて寄越した。彼は部隊で「射撃の名手」に選ばれ、国慶節の射撃大会で優勝した。「射撃の名手」という呼び名が、彼の人生を変えた。ニューヨークのプラザホテルで、「特務のトップ」と言われていた蒋経国を撃ったのだ。彼が出国する前、雑誌を出版する計画を話したところ、信頼できる友人で、印刷工場を経営している黄社長を紹介してくれたのだった。

黄社長の印刷工場は萬華の古い通りにあった。入り口から入るとすぐに並んだ印刷機が見え、夜でも止まらぬ機械の騒音が、私たちが秘密の話をするのに好都合だった。黄社長は黄文雄の同級生で、立て板に水を流すように喋り、どんな話でもした。私は率直に、印刷したいのは禁制の文章だと言ったのだが、この私の発言が彼の熱意と好意を削ぐことはなかった。
「うちみたいな規模の工場でやっちゃいけない。」彼は婉曲に言った。
「国民党の『線民』(一般市民で密告や情報提供をする者)も白色テロも、どこにでもいるからね。うちの従業員はみんな印刷組合の組合員だ。労働運動で労働者の結社の権利を勝ち取ったのに、国民党は組合を利用して線民をもぐりこませ、『保密防諜(秘密の保持とスパイ防止)』の訓練をして、実地にもやらせている。私の工場なら文選、組版、印刷、製本の一貫作業ができるが、全部の工程で線民が監視している。小さい工場でやったほうがいい。文選と印刷はそれぞれ小さい工場がある。こういう工場に合わせて、萬華には版下工場もあるし、活字を作る工場もあるし、二、三台の印刷機で主人が職工を兼ねる工場もある。」
私はずっと黄社長の、熱心で朗らかな顔を見つめていた。彼は鉛の活字が買える店と、版下工場の住所を書いてくれた。
「版下の作り方はね。まず文章を清書して、問題になる部分の文字を抜き取って空白にする。次にそれと同じ字数の他の文字で空白を埋め、工場で版を組んでもらう。版下ができたら、活字工場で元の文章に差し替える分の活字を買う。そして版の不要な文字を抜き、元の文字をそこに埋め込めば版ができる。」
「どこの工場に行けばいいですか?」
と、私は尋ねた。
「そこがポイントだよ。印刷業は、ポルノ小説だけが自由なんだ。萬華にもポルノ専門の印刷工場がある。中国語も日本語もある。場所を教えてあげるから、すぐにわかるはずだ。」
そして彼はポルノ小説の印刷工場の場所を書いてくれた。
私は黄社長に別れを告げ、彼がくれた情報を頼りに、版下工場と活字屋と、ポルノ小説の印刷工場を探した。彼のアドバイスはありがたかった。私は彭教授と魏廷朝に印刷の方法を説明したが、それを誰が教えてくれたかは言わなかった。審問中にも、この素晴らしい助っ人のことを話しはしなかった。

私はまず手書きで、この宣言を書いた。文中からタブーとされている文字を抜き、「国民党」を「共産党」に換え、蒋介石を「毛沢東」に換え、「一つの中国、一つの台湾」を「反攻大陸、統一中国」に換えれば、典型的な反共宣伝文であった。表題は空白にし、ゴム印を使うことにした。政治工作員は常々「自由主義者」は「共産主義者」に酷似しているとして追及するが、実際に極右と極左は似ている。

私は書き直した原稿を版下屋に送り、日曜日の朝に受け取る約束をした。既にある旅館に目をつけてあり、その旅館は商人相手だったので、日曜日には客がいなかった。私は魏廷朝と旅館で待ち合わせ、文字を換えた。彭教授も自ら旅館の部屋に来て作業に参加した。彼は時間通りにやってきて活字を拾い、完成したら帰って行った。誠実でていねいで、情熱的で、真面目であった。私は深く感動した。

私と魏廷朝は約束の時間に、版下をポルノ小説の印刷工場に送り届けた。いたく需要があるのか、日曜日でも忙しげに印刷をしていた。主人は今の分が終われば私の番だから少し待つようにと言った。この工場には四台の自動印刷機があり、全部稼動していた。一人の若い職工が版を持ち上げて読もうとした。先手を打つ必要があった。文章には表題がないが、私は彼に、これは試験問題だから読ませられないと言った。主人は私に、読めないものは印刷しないと言った。そこで私は版下を運び出し、魏廷朝に手伝ってもらって森林南路の住まいに運んだ。

印刷業に対する国民党の管制は厳格を極めたが、ポルノは規制しなかった。殷海光教授が言うには、国民党は全面的に思想統制をしているが、黄色黒色(エログロ)の文章については自由にさせて、人民の情緒のはけ口にしているということだった。この点は、後に政権を執った民進党が特に風俗産業を取り締まったことと、顕著な対比をみせている。
萬華から版を持ち帰ったので、もう萬華には顔を出したくなかった。そこで大稻?と圓環で小さい印刷工場を探した。電話帳が私の情報源になった。帰綏街に何軒か印刷工場があった。「三能印刷」という工場に頼むことにし、印刷の日を九月二十日にした。なぜ九月二十日かというと、彭教授が私に、学校が始まるので、授業のための教材を準備しなければならないと言ったからである。九月二十日は夏休みの最後の休日で中秋節でもあったので、工員は休んでおり、主人が自分で印刷しなければならなかった。「黒い手の主人」という言葉があるが、これは労働者でもある店主のことである。この主人は文盲でもあり、正に天の助けであった。
(訳注:黒い手とは実際に手を汚す人のことも指すので、ここでは禁制品を印刷する人という二重の意味がある)

萎びた顔の中年男は頑迷で厳しかったが、声が少しうわずっていた。
「誰が二百枚持ち出したのか、調べなければならないんだ。こんなビラが流出したら大変だ。」
私は繰り返した。
「印刷屋の主人も密告できるし、盗みもできる。近所の子供も密告できるし、盗みもできる。警察かもしれない。警察が窃盗団とグルになった事件もあるでしょう?」
小太りの男が入って来ると、萎びた顔の男が出て行き、ドアを閉めた。
「おまえのことを調べているが、おまえは陸軍士官学校で教え、魏廷朝も軍事情報局で仕事をしていた。陰謀がだいぶ進行していたようだな。」と、小太りの男が新たな容疑を持ち出してきた。
「圓山の後ろの軍事情報局で魏延朝に会ったことはあります。彼は軍事情報局の招聘人員の試験に合格しました。仕事は上司から渡される英文と日本文の資料の翻訳だけです。実際の情報工作はしないし、秘密の使命もありません。それにすぐに自分で辞めて、中央研究所で働いていました。」と私は反駁した。
「私もそう思うよ。魏廷朝は単純素朴で、答えはいつもはっきりしている。お前の印刷の仕事はプロの仕事だ。大したものだ。」と彼は善意を表した。
小太りの男の話は自然なものだった。当初の敵意に満ちた眼差しは消えており、ひときわ温厚で親切な感じがした。
「お前は日本へは行っていないが、ある日本の外交官研修員があちこちでおまえを探している。お前の外国との関係を全部言え。」彼は小さな声で言った。
私の心に一抹の不安がよぎった。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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